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振り返る人

駅近くの低層集合住宅。
傾斜地であるため、駅側は石垣が支えている。下から見上げると、石垣の上の建物はちょっとした高層マンションだ。北側に長い石段があり、早朝、そこを降りて駅へ向かう人がいた。
歳は、私と同じかそれ以上。朝の散歩ではなく、勤めに向かうようだから、あるいは私よりも幾らか若いかもしれない。服装は、いたってラフ。小さなショルダーバッグがなければ、日課のブラブラ歩きに見える。
彼は、ある場所まで来ると、必ず振り返って見上げる。視線の先にあるのは石垣の上の集合住宅、その南西面、物干し兼用ベランダの辺りだ。そして、そちらを見上げたまま、手を上げ、駅へ向かって歩いていく。視線の先には見送りの人がいたのだろうか。見送る人がいるのなら、散歩ではなく、やはり今から勤めなのだろうと解釈した。
しかし、彼を見送っているのは誰なのか。小さなお子さんがいる年齢には見えない。いるとすれば孫のはずだが、小さな子どもが起きていてベランダに出ている時間とも思えない。どう考えても、奥さんだろう。彼と然程変わらない年齢の女性がベランダに出て、手を振っているのだろうか?振り返る男の表情が、少しだけ緩んで、最後に大きく手を振ったときもある。
視線の先を辿って、彼に手を振る人を確かめてみたかったが、さすがにそれは憚られた。


私の早朝の散歩が、不定期になり、時間も一定ではなくなったから、振り返る人にも暫く会っていない。そう思いながら、石垣の下から集合住宅を見上げてみた。ずらりと並んだベランダ。当然ながら、そのどこにも人影はない。
ふと、カーテンのない一室があるのに気付いた。そこだけ、ぽっかりと暗い穴が開いたように見えた。
空き部屋。
その男の部屋だったのだろうか。
急に何とも言えない胸騒ぎを覚え、それを鎮めるることができなかった。