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マヤカン2

マヤカンが廃墟になってからは当然ながら立ち入ったことはない。
掬星台から見下ろして、緑の中に埋もれている屋上を確認した程度だ。
掬星台付近には嘗て奥摩耶遊園地があった。小さなジェットコースターや、近くの食堂で初めて食べたハヤシライス。しかし楽しい思い出ではない。両親が言い争う傍にいて、泣くのを堪えていた。
父は酒を飲むと、何故か不機嫌になった。船に乗っていて、日本での休暇は久しぶりであるのに、その半分以上は酔いつぶれ、怒鳴り散らし、様々な物を壊していた。前後不覚の状態で、中突堤から関西汽船に乗り、九州の田舎へ、一人で帰ったりもした。
父の休暇は私には、段々と憂鬱なもの、忌避したいようなものになっていた。30~40代頃の父の不満は何だったのか、今なら、話を聞いてみたい気もするのだが。

父が危篤であるとの電話連絡が病院から来たのは、11時を過ぎたくらいだった。夕方、仕事終わりに集中治療室の父を見舞ったが、数日来同様、意識はなく、心電図の音が聞こえるばかり。入院当初に宣告されたとおり、死は間近に迫っていると思うしかなかった。
帰宅後、食事を摂り、そのまますぐに転寝してしまったのだが、胸騒ぎがして、目が覚めた。
妻がつけていたテレビでは、小泉今日子が廃墟のマヤカンを舞台に、風の又三郎の朗読をしていた。βマックスに既に録画していて、その時は再放送だったはずだが、今では、確かめようがない。マヤカンだけでなく、古いジェットコースターの軌道や遊具の残骸が、緑の中に埋まっていた。電話が鳴ったのは、その時だった。

タクシーに乗って病院へ着いた時には12時近くになっていた。汗びっしょりの当直医がマッサージを止めると心電図が停まる。それが暫く続いているとのこと。もう止めてよいかと訊かれた。承諾するしかなく、私と妻は、父の臨終を告げられた。大正生まれの父は、78歳から7日目の深夜、死亡したことになった。
家を出るときにテレビに映っていた映像が脈絡もなく頭に浮かんだ。
摩耶山上の濡れたような緑に埋もれる赤や黄色の遊具だった。