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トマトジュースの続き

記憶の中の呉の造船所は現在のどこなのか。地図を見ても判然としない。父が乗り組んでいた船が入渠修理乃至は整備中だったのだから、IHIと合併する前の呉造船所、嘗ての呉海軍工廠だったのではないか。
この時、暫く呉に留まるため、広島市内の船員保険の施設に連泊した。父は昼間は船にいて、夕方、寮へ戻ってくる。いつもなら酒に荒れる父の姿ばかりが残るのに、この旅行は比較的楽しい場面も思い出す。
8月6日の8時15分、大きなテレビがある玄関ロビーにいる人全員での起立黙祷。終戦から20年が漸く過ぎた頃。子供にとっては遥か昔の噓みたいな出来事だが、大人にとっては20年など、つい先日の記憶。今なら、それが実感として分かる。
音戸渡船から眺めた赤い大橋。呉線を走る蒸気機関車。トンネルに入ると、窓を閉めても、石炭を燃やす煙に噎せた。しかし、初めて乗ったから、それがイヤだとは感じなかった。
造船所は、様々な、色で溢れていたはずだが、思い出すのは、8月の空と海。それに暗い赤色。無論、それは防錆塗料の色のはずだが、父に貰ったトマトジュースの色も同じように思い出す。初めて口にしたそれは、氷が入っていたのに、どろりとしていて、濃い塩味が舌に残った。ジュースという名前から想像するものとは、かけ離れていて、最後まで飲み干すことが出来なかった気がする。
その後の記憶が朧だ。広島の市内で観た「大忍術映画ワタリ」は誰が一緒だったのか。せがんだくせにトマトジュースを飲み残したことで、父の機嫌を損ねたようにも思うし、後年聞いた妹の話では、一人で勝手にどこかへ行って居なくなった時間があるとのこと。それが、呉だったのか、広島の映画館だったのか。妹には映画を観た記憶も、私がトマトジュースを飲み残した記憶もないらしい。
暑い夏空の下で口にしたトマトジュースだったが、小学生の飲み物ではなかった。
あれは酒を飲む大人の飲み物だ。